一家に遊女もねたり萩と月 芭蕉 評者: 髙野公一

『おくのほそ道』には合計62句の発句がちりばめられている。それらは旅の途中で生まれた旅吟であり、句はそれが生まれたその場面に置かれている。読者は作者の意図にそって、そのようにこの〝歌物語″を読んで来た。
 昭和・平成という時代になって『曾良旅日記』や『自筆本』が出現し、『おくのほそ道』への専門家の目は一変する。芭蕉というこの書の作者は、芭蕉という私小説の主人公を登場させながら、虚実を織りなして、独自な文学空間を作り上げていた。当代の学者はその制作過程にまで立ち入り始めた。
 合計62句のうち少なからぬ数の発句は、実際の旅の数年後の物語制作時期に、その物語の為に新たに作られたものであった。そして、あたかも、その時その場で作られたように、物語の中に置かれたのであった。例えば、次のような句である。
  行春や鳥啼魚の目は泪      (旅立)
  田一枚植て立去る柳かな     (遊行柳)
  あやめ草足に結ん草鞋の緒    (宮城野)
  蚤虱馬の尿する枕もと      (尿前の関)
  一家に遊女もねたり萩と月    (一振)
 曾良の『書留』に記載がなく、真蹟も見当たらず、門人の言及もない、などがそう考える根拠になっている。何れも物語の場面に詩的感興を付け加えるための作者の意匠である。
 それらの句のほとんどは、地の物語がなければ、句の意味も定まり難いものだが、表題の「萩と月」はそれらの中では一句としても十分に完結している。遊女と世捨て人、萩と月、それぞれがほのかに匂い合い、この句を前にすると、自分とこの句の間に何やら新たな物語が生まれそうな感じがしてくる。しかし、その感じはなかなか具体化しない。この句はやはり『おくのほそ道』の市振の物語を背負ってしまっていて、他の物語を寄せ付けない。それがこの句の力でありまた宿命なのであろう。

 出典:『おくのほそ道』岩波文庫

評者: 髙野公一
平成28年3月1日