閑さや岩にしみ入蟬の声 芭蕉 評者: 髙野公一

 『曾良旅日記』と呼ばれるものには、日記本文の他に「俳諧書留」が含まれている。旅の俳席での歌仙はもとより、芭蕉の単独の発句も書き留められている。市振の章段で「曾良にかたれば、書きとどめ侍る」との一行からも伺えるように、恐らくは芭蕉公認の俳諧記録帳であったのだろう。
 「俳諧書留」があることによって芭蕉の『おくのほそ道』での旅吟の初案と最終の句形が対比でき、芭蕉の俳句工房の一端を除き見ることが出来る。

 夏山や首途を拝む高あしだ  > 夏山に足駄を拝む首途かな
 隠家やめにたゝぬ花を軒の栗 > 世の人の見付ぬ花や軒の栗
 山寺や石にしみつく蟬の声  > 閑さや岩にしみ入蟬の声
 五月雨をあつめて涼し最上川 > 五月雨をあつめて早し最上川
 有難や雪をかほらす風の音  > 有難や雪をかほらす南谷
 涼しさや海に入たる最上川  > 暑き日を海にいれたり最上川
 象潟の雨や西施がねむの花  > 象潟や雨に西施がねぶの花
 腰たけや鶴脛ぬれて海涼し  > 汐越や鶴はぎぬれて海涼し

 五月雨の最上川。「涼し」から「早し」への転換は余りにも有名である。象潟の句形の変化についても論評が多い。「海にいれたり最上川」の原案は「涼しさや」であった。しかし、何といっても山寺の句の変化に驚かされる。
 初案の「石にしみつく」の把握が非凡さを示してはいるものの場所を特定した首五の置き方も含め普通の句であろう。そこから完成形にいたる質的変化に驚く。推敲というのは、字句を添削することではなく、言葉の働きによって自らの感性を深めつつ、新たな認識を獲得してゆく行為にほかならないことが見えて来る。眼前にある一つの実景が悠久の時間と空間というの虚の中の一景として生まれ変わっている。『猿蓑』の序に其角が言う「幻術」を見る思いがする。
 幸田露伴はこの「幻術」を敷衍し「無を有と為し、有を無となし・・・虚象にして真感を生ぜしめる」と解説している。「閑さや」「しみ入」はそういう言葉なのであろう。

出典:『おくのほそ道』岩波文庫

評者: 髙野公一
平成28年3月21日