春風や川浪高く道をひたし 內田百閒 評者: 花房八重子

 桜吹雪につつまれた旭川の土堤沿い、内田百閒記念碑園に石碑のような文学碑が建つ。川向こうに後楽園があり、岡山城も見える。
 この土堤には、約300本の桜があり桜並木が続き、満開の頃は車が渋滞する。花吹雪の中で一瞬、異次元に迷い込んだ幻想に浸りたくて、故意にどの車も渋滞に紛れ込んでいるようにも思われる。その土堤沿いの石垣状の石に「春風や川浪高く道をひたし」と、百閒の句が彫られ、その側の石には『子供の時から朝は丹頂の鶴の、けれい、けれいと鳴きわたる聲で目をさました』と、彫られている。後楽園にほど近い岡山市古京町の幼い頃の豪奢な思い出でもある。生家は酒造業を営み、繁盛していた。
 その一人っ子で甘やかされて育ったため、岡山県の方言でホンソウ子(ご)と言われた。純粋で、良くも悪くも自由奔放であった。しかし、次第に家運は傾いていく。六高に入ると俳句に没頭し、百間の号を用いている。生家の東方に流れる川幅百間ある、その名のついた百間川に因んだのであろう。よく土手に寝ころんで本を読み、俳句を詠んでいた。その頃の俳諧精神が、百閒文学の原風景であり、基底ともなっていると言われる。
 その後、東京帝国大学に進み、夏目漱石の門下生となる。この頃、百閒と改名している。「閒」は門を閉じても月の光がもれるさまから、隙間の意味を表す、と漢語林には出ている。百閒の名が広く知られるようになったのは、独創的な内容とペーソスを含む随筆であった。
 春の風は時に強風となる。当然、瞬間的なものではあるが意識の前には過去の感慨が去来したであろう、川波はその心象風景にまで及んでくる。実景であり、同化しているように思えるが、空間と時間の広がりもあり、何でもない日常が関心の的となる真実感が人間味となって出てくる。その実感を人生の風景として多彩な随筆などで百閒文学にまで高めた。
 昭和47年芸術院会員に内定したが辞退している。享年81歳。

出典:「おかやま文学の古里」富坂 晃 著

評者: 花房八重子
平成28年5月16日