三日月に浅瀬はくだらないところ 佐藤文香 評者: 竹岡一郎

「くだらないところ」と言い切るところに妙に感動し、涙するのはなぜなのか。夜空は晴れていて、三日月が掛かっている。浅瀬は優しい音を立てている。多分、作者以外に人はいない。これが満月でも半月でも新月でも、三日月よりは重い。(これが半月なら、「月の舟」という異称があるから、半月は浅瀬を下ってゆかないという甚だ万葉的な美意識となる。)大河でも淵でも小川であっても、浅瀬よりは重い。重い、とは意味が付くということだ。ただひたすらに軽く穏やかな夜の景に、作者は多分長い時間じっとしていて、それから「くだらない」と言う。それは作者自身の景に浸っている心情を自ら「くだらない」と言ったのかもしれず、古典的な美意識から身をもぎ離したのかもしれず、三日月と浅瀬の間にある自らの孤独を「くだらない」といったのかもしれない。それはカッコつけかもしれん。しかし、痛いのに痛くないと言い、寂しいのに寂しくないと言うような、そんなカッコつけである。痛いとか寂しいとか言った瞬間に、その痛みや寂しさは半減し薄っぺらくなってしまう。だから、作者は口が裂けてもそう言わない。「くだらない」と言い切る事により、却ってその痛みや寂しさは手垢のつかぬまま保存される。三日月は、空に切り込まれた作者の疵か。浅瀬は、疵には無関心にひたすら流れて止まらない生か。三日月よ落ちろ、浅瀬よ止まれ、と作者は呟きたいのかもしれぬ。そうは言わずに「くだらない」とだけ言う。その罵詈が、実は三日月と浅瀬をかなしんでいる表明だと読んでしまいたい。

「君に目があり見開かれ」所収。53p

評者: 竹岡一郎
平成29年4月1日