ゆきかうロボットもまた旅人なり 川名つぎお 評者: 森須 蘭

 ロボットを一句の中に詠み込むのも珍しいし,詠み込む方もかなり革新的な心構えがなければならないことだろう。それもそのロボットもまた「旅人」であると、芭蕉の精神を継いでいる。このロボットが人の心を持つ所以である。
 もともと、二足歩行のロボットは、手塚治虫の「鉄腕アトム」の頃より日本では夢のように研究されていたが、昨今では、その実現も近いようである。映画の世界では、1999年、ロビン・ウィリアムズ主演の「アンドリュー」が、まるでこの句をなぞったような人生(?)を辿る。己の作られた意味や意義を探し、世界中を旅してその答えを見つけ、最後には、心を持った「人間」としてその存在を認められ、愛する人の隣で〈亡くなる〉のだが、ソフトバンクの発売した「ペッパー」や、人工頭脳を持った「アトム」の模型が登場するなど、ただのアイロニーとして見過ごせない現状も近いのかも知れない。いや、反対に、人工頭脳の方がかしこくなり、アーマロイドが中心となる世界が来るのかも知れない。すると、人間はどこへ行くのだろうか?
 「心を持つ」ということは、人との共存が必須である。やはりここで言われるロボットは、心があるようで心を持たないロボットの行く先を「人型人形」として憂いているだけなのであろうか。同じく「明け易き都市に羊が溢れたり」にも、同様の乾いた感情が都市の夜明けに流れている風景だが、都市に於いては、人間の心が乾ききっていることの例えとして虚しくも恐ろしい。無機質な物体の様に人が流れ、人が去る。「ゆきかうロボット・・・」は、その最先端の無情を詠んだものとして傑出している現代句であろう。

出典:「頂点」243号より

評者: 森須 蘭
平成29年4月17日