遠山に日の当たりたる枯野かな 高濱虚子 評者: 田付賢一

 現役の教師(女子中学・高校)だった頃、教科書に出てくる句の心情を生徒たちに理解させるためにずいぶん苦労したものだ。
 たとえばこの句の解釈について指導書には次のように書かれている。
「行く手のはるか向うに見える山には日が当って、今自分はその遠山を見つめながら枯野を歩いている」
 たしかに虚子の写実からすればその通りの解釈には違いない。しかし多くの生徒にしてみれば「それがどうしたの」ということになる。そこである授業の時、この句をそれぞれに自由にイメージして話し合いをさせてみた。
「強い日ざしが当って輝く山の下に枯野が広がっているのよね。その対照が面白いのかな」
 虚子が喜びそうな感想もたしかにあった。
「この句ってなんか変。日の当たりたる枯野だから、日の当っているのは枯野でしょ。たるは連体形なんだから。遠山とどちらに当たっているのか、<あいまい>だと思うの」
 そんな意見がいくつか出て来て、面白かったのを記憶している。その中で最も印象的だったのはあるかなり優秀な生徒の次の感想だ。
「遠山は行きたい大学のことで、日の当たりたるは合格発表、枯野は今の私たちかな」
 虚子の苦笑する顔が思い浮かぶ。最も受験でこんな解答をしたらまちがいなく不合格だろうけれど。
 平成二十二年より、小学校でも俳句づくりが必修化される。これまでのような教科書俳句の解釈だけではすまされなくなる。子供たちの自由な発想から、豊かな心情を育てる教材として俳句は見直されなければならない。
   
出典:『高浜虚子全句集』
評者: 田付賢一
平成22年3月11日