或る闇は蟲の形をして哭けり 河原枇杷男 評者: 桑原三郎

 秋も深まった頃、駅からの夜道を歩いているときなど、道の左右の草むらからの降るような虫の音。その草むらを照らす街灯のその光りの届かない辺りの暗がりが、殊に激しい虫しぐれである。そんな夜道を歩くときに、何時も思い出すのがこの句である。
 もともと枇杷男の句は写実的な手法で書かれているわけではなく、内なる心の闇を視ようとする営為としての俳句であると言われているから、この闇は現実の闇そのものとして書かれたわけではないと思われるが、こうして表現されてしまうと、帰宅途中の草むらの景として十分成り立ち得ると思う。やがて草むら一面を覆う闇はざわざわと動き始め、巨大な蟲の形をして鳴きだす。まさに闇が鳴いているのである。またここで「鳴」くではなく「哭」くであることにも注意しよう。私としては「鳴」くことによって、より広くこの句を鑑賞できるように思うのだが、「哭」くの方に作者の意思があるのは言うまでもないところである。
 作者の「自作ノート」の中に<現代人の不幸は、真の夜闇をもたぬところにあるのかもしれない。私は、マーラーの「闇」やフォーレの「夜」に慰められてきたが、かつて俳句の世界は如何なる夜闇を所有してきたであろうか>とある。都会も村も昔のような闇を失ってしまったこの頃、人々の心の闇は、なお深く閉ざされたままである。そんな視えざる世界をどう詠むか。そんなテーマを掲げた枇杷男の思いが伝わる。
  身の中のまつ暗がりの螢狩り
  一頭の闇の嘶く粉雪かな
 も、同様の思いからの作であろう。

出典:『蜜』
評者: 桑原三郎
平成22年10月11日