露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 攝津幸彦 評者: 桑原三郎 

 とても厄介な句をあげてしまったのだが、でも何だかこの句について言ってみたい気がする。そんな気持ちをなんとなく起こさせる句である。この句を知ったのが何時だったのか、多分、攝津幸彦がまだ活躍中であったろうから、どうして金魚が露地裏を夜汽車と思うのかと質問すれば答えが得られただろうか。いや、恐らく例の柔らかな関西弁でうまく恍けられてしまったことだろうが。攝津幸彦の句は天狗俳句的だと三橋敏雄が言ったそうであるが、天狗俳句とは「天狗俳諧・雑俳種目、でたらめに付句して勝負を争う賭博に類似した前句付や、三人で思い思いに詠んだ上五・中七・下五を継ぎ合わせて句を作り興じる俳諧遊戯などをいう・俳文学大辞典」で、つまり上五・中七・下五を一度ばらばらにして無作為に繋ぎあわせ、一句にするという作句法である。そう言われれば、
  三島忌の帽子の中のうどんかな
  脳味噌にある空海とダリヤかな
  鶏卵を市電で割りぬ啄木忌
 などの句、上手く継ぎ合わせて上手くいった句のようにも思われる。ただ、そんな天狗俳句であっても言葉と言葉の偶然の出会いはある。その出会いを偶然として流してしまうか、そこに新たな発見の糸口を見つけるかは、作者次第ということになるであろう。攝津幸彦の俳句の発想がどのようなものであったとしても、その結果は素晴らしい。今更ながら彼は優れた才能の持ち主であった。
 露地裏には安っぽいバーやら飲み屋が軒を並べ、猥雑な人声が流れたりする。ああ、まるで夜汽車のようだと男は淋しく思う。金魚のような目をしたその男が。

出典:『陸々集』
評者: 桑原三郎
平成22年10月21日