銀河系のとある酒場のヒヤシンス 橋 閒石 評者: 桑原三郎

 ずっと好きな句の一つである。その魅力の一つは、銀河系をいうまさに宇宙規模の世界から、とある酒場(どこでもいいけれど、多分日本のどこかの都市の、閒石さんの場合であれば神戸のちょっとした場末の)へと場面が移り、更にそのお店のカウンターか何かに置かれているヒヤシンスへと焦点が絞られて行くところ。いわゆる俳句の技法の一つにまず大景を描き、そこから次第により小さなものへと視線を移して一句を完結させるというやり方があるが、この句のいきなりの銀河系というのは、なかなか誰しも思いつかないところ。天、空、大地などと、昔から大きなものの謂いとしてよく使われてきた。ただ、考えてみるとそれらは確かに存在はしているのだが、モノとしてどこまで捉えられるかとなるとどうも自信が持てないような気がする。それに対して銀河系は確実に存在する。夜空に仰ぎ見る天の川がその本体であり、一方でわれわれ人類をはじめ多くの生物や無生物の存在する地球もまた、その銀河系の一部なのだから。つまりはこの銀河系の<系>が曲者であり、この言葉がキーワードとなり、読者を遥かな想像の世界へと導いてくれるのではないだろうか。橋閒石さんは俳句は旧派の出であり、連句の世界でも知られていたが、また英文学者であり、大学で英国の詩を教えていたという、とても瀟洒な人であった。閒石俳句の中には結構難解な句があって、私は殊にそういう句が好きである。
  柩出るとき風景に橋かかる
  階段が無くて海鼠の日暮かな
  蝶になる途中九億九光年
 など、いろいろを解釈出来てなお残る謎が何とも言えない。

出典:『微光』
評者: 桑原三郎
平成22年11月1日