月しろの獏のとほつてゆきしやう 松澤 昭 評者: 佐怒賀正美

 月白のほの明るい空にぼうっと白んだ雲でもたなびいていたか。それは獏が通り過ぎたあとのようだ、というのだ。実は、この句は「月白」以外に何も具体的に描いていない。それなのに、神秘的なしずけさとほんのりとした親しさを感じるのはなぜだろう。
 もちろん、ここで言う「獏」とは、人の悪夢を食って生きると言われる中国伝来の想像上の生物。私自身も、未だ見ぬ漠とこれまで付き合ってきたが、この古稀間近だった作者も心の中でこの獏との往信来信をひそかに愉しんだのできたのではないか。
 〈凩や馬現れて海の上〉のシュールレアリスムに本質的な出発点を置く作者は、花鳥諷詠的な写生主義からは早い段階で決別し、「心象造型」の自由さと豊かさを追求しながら、やがてその描くイメージには具体的な現実の具象物だけでなく、たとえば
  おもざしの風にあふれてところてん
  あぶらなの花にはろけささしかかる
  たましひのいたるところに泳ぎつく
  はんざきの雲でも食べたあとかしら
  やれはすの愉しむほどにほねがらみ
など、虚も実も観念も不可視のものも内的世界への関わりの中に、権威とはおよそ無縁のやさしい語り口で、すんなりと取り込んでしまった。実も虚も心をとりこにするものであれば、俳句の世界では同等の住人だ。獏もその一人であるにちがいない。
 冒頭の句では、「月しろtsukishiro」と「ゆきしyukishi」に、ukishiという同音があって、しかも冠する子音は硬いtsから軟らかいyへと移行する。句末も「・・やう」と、一刷けのひかりのように流されているのが、この句の軽やかさにまたふさわしい。それは、そのまま作者の晩年の心の在り方でもあろう。

出典:『乘越』
評者: 佐怒賀正美
平成22年11月11日