この車月光に砂丘かも知れぬ 森田緑郎 評者: 川名つぎお

 不思議な感覚を招く一句。いわば森田緑郎像を他者が語れば、かく表現するのも妥当であろう。「月光」と日本人のトータル・イメージを打破する書き方に森田的な言語美学が感じられる。ここでの「月光」は濡れていない。パリ・ダカールのサファリ(スワヒリ語で狩り)にみられるカーレースが浮上。ドライバーとマシンが一体となって生物化し、砂漠を幾夜も駆け、本能の如くに突っぱしる。全ての風景は「月光」にとっては淡々とした砂漠やそのうねりかもしれない、と鋭角に切りとった一瞬時なのだ。
  言い訳のように昼月母訪わな

  発止と蟬それから一茶出て行けり
 「月光」は動かし難き自然のシンボリックな意味であり、「言い訳」も「蟬」も人にかゝわる日常次元にすぎないが、その時空のなかで、一茶の如く、つねに出発していくしかない。そしてその果ては、不確かな現況のなか「月光に砂丘」の手さぐりで探す試みを自からに課してゆく。
  雲を釣るひとりは見えて後向き
 この難解きわまる一句にこそ、森田緑郎の心髄がひそんでいたとも言える。というのも、この句柄の背景に、自然と非対立のまま異形でも異常でもなく、自然態に見えてはいるが「後向き」にすぎない日常のフォーメーションであったのだ。確かに前掲の「車」体も「砂丘」も、「月光」自身同様の図式のなかにありつづけた。が、最近では、ひそかに深層心理の転回を暗示する句もある。森田像が転位してゆく前兆かもしれない、その作品は新鮮だ。
  壊し屋が五月の空を見ていたり (『現代俳句年鑑』平成19年より)

出典:『藍納戸』(角川書店・平成10年)
評者: 川名つぎお
平成23年1月31日