夕日影競漕赤の勝とかや 高濱虚子 評者: 柏田浪雅
虚子が、大正年代の東京高商(後の一橋大学)と東大の対戦した競漕を見たときの一句である。人間性に幅のある好奇心の強い虚子を彷彿とさせる。
「春風や闘志いだきて丘に立つ」の一句で知られる虚子の大正二年の守旧派宣言は、碧梧桐の無季・自由律に対し結果的には絶大なる効果を発揮し、これを駆逐してしまうこととなったが、実はこの宣言は子規にまで及ぶという見方がある。
子規と虚子との間の「夕顔論争」は、季語に対する根本的考え方の相違に基づく。即ち、子規が季語を目前の景として詠む効用にだけ限定したのに対し、虚子は、歴史が培い堆積してきた世界をもつのが季語であり、その面影に基づいて句をよむことこそ季語の本意であるとした。これが、子規の後継たることに一時難色を示した虚子の所以のひとつでもある。虚子は必ずしも子規の目指した「写生」に盲目的に従うものではなかった。
「古志」主宰大谷弘志は言う。「俳句という形式は、季語を守っているかぎりは、現実社会をリアリズムによって描くということには向かない。季語の本意をしっかり見直さずに、リアリズムを突き詰めていくと、碧梧桐のように無季に進まざるを得なくなる。」(古志10年7月号「虚子論―夕顔論争とはなにか」)
兜太の造型を待つまでもなく、戦後俳句はリアリスティックな作句態度を強く要求することから、大谷の理論に照らすと無季への傾倒は避けられなかったことかも知れない。
しかし、子規以後の改革の流れに従って無季・自由律へと進んだ碧梧桐に対した守旧の虚子が、句界の大きな支持を集めたように、着実に市民権を得てきた無季俳句に代表される戦後俳句の展開の一方で、昭和40年代以降、龍太・澄雄らの新古典派の台頭に象徴される古典帰りの流れに、俳句大衆が合流しつつあるのも事実である。
新しいものを創り出していくという芸術の精神は、今後果してどちらが担うこととなるのか。無頓着ではいられない。
評者: 柏田浪雅
平成23年11月11日