うつくしきあぎととあへり能登時雨 飴山 實 評者: 柏田浪雅

 兜太の「造型論」作句プロセスをもって掲句を鑑賞してみた。
 冬の越前をテーマとして出かけた金沢で妙齢の女性に会う。触発された感覚が、「創る自分」の働きにより様々の意識に作用していく。土地の歴史、町の佇まい、華麗なる文化、伝統の工芸、華やかな女性像とその所作、寒冷の自然、海の音、「奥の細道」、旅する芭蕉の顔、大和言葉、季語の集積などなど。これらの歴史的・空間的意識と感覚との十分な往還のなかで、能登時雨というイメージに結実。言葉の吟味を経て麗しい一句として完成した。
 能登時雨は意識のひとつとも取れるが、一句全体を受け止め得るイメージとして、最後に獲得されたと考える方が妥当であろう。
 この飴山が、現代俳句に欠ける伝達性に言及し、「砕片的イメージを並べただけで詩表現になっていない」とまで酷評する句群がある。
  僕らに届かぬ鍵が流れる指ひらく都市 島津亮
  広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み  赤尾兜子
  見えない階段見える肝臓印鑑滲む  堀葦男
        (雲母昭34・4「現代俳句の汚れ」)
 自身も、「芽の青き森へ嬰児を捨てにゆく」
「野に食卓が朽ち終焉の朝日泛く」「砂走る絶
景に萌え黒い木々」などの前衛的作品をもつ飴山の指摘は、説得力がある。
 兜太は、「造型論」において、得られたイメージの伝達性を高めるための言葉の選択について、細心の注意を喚起しているが、平21・3の講演「前衛俳句は死んだのか」においては再び、「これからの俳句に残るのは方法としての造型論と言葉の韻律・形式の力、そしてつねに新しいものに挑戦する戦後俳句の精神」と、「造型」に果たす言葉の重要性に言及している。
 現代俳句の支柱として位置づけられる「造型」の展開のなかで、ことばの検証による伝達性の向上は、大きな課題となるのであろう。

出典:『少長集』

評者: 柏田浪雅
平成23年12月1日