砂川の砂の流れの春浅し 大竹孤悠 評者: 鶴岡しげを

砂川の砂の流れの春浅し 大竹孤悠
 昭和四十年(一九六五)春のある朝のことである。私はいつものように家を出て、いつもの電車に乗り、いつもどおりの駅に降りた。そして、太平洋と阿武隈山地に挟まれた、細長い地形の工業都市・日立市の中心部に本拠を置く「かびれ」主宰・大竹孤悠先生を訪ねた。
 そのとき私は「かびれ」に入会してからまだ一年。「かびれ」の歴史も、孤悠先生の名声も知らなかった。平日に、それも突如訪ねた私に、先生は多くを聞かずに部屋に入れてくれた。しかし先生は、その日私が会社をサボったことは見抜いていたであろうと思う。
 奥さんにお茶を淹れて頂いたあと先生と二人であったが、その間の内容はよく覚えていない。昼食を頂いたこと、炊き立てほかほかの真っ白いご飯をお代わりしたことは覚えている。
 午後、先生に来客があったのを機にお暇をした際、句集『孤悠二百句』を頂いた。そのとき、記念にと句集にしたためられたのが掲句である。
 それは春の日差しの中にいるような、ほのぼのとした雰囲気に包まれて過ごした小半日であった。その後も孤悠先生にはなにかと目にかけて頂いたが、昭和四十五年(一九七〇)「かびれ」を退会。その後三年ほど俳句を中断した。今にして思えば、若気の至りであった。
 『孤悠二百句』は昭和三十七年(一九六二)発行。それまでの孤悠先生の発表作品四千五百句から小宅容義・山本徹両氏が厳選した二百句を収録。清澄感溢れる掲句はそのなかの一句。私の指針とした一句であるが、孤悠先生の意中の一句であったろうと確信している。
 大竹孤悠先生は、米沢から上京して俳諧を学んだ後、矢田挿雲に師事。昭和六年(一九三一)「かびれ」創刊。生活即俳道を実践して七十年、昭和五十四年(一九七九)八十四歳で没した。

出典:『孤悠二百句』 

評者: 鶴岡しげを
平成24年1月11日