薔薇匂ふはじめての夜のしらみつつ 日野草城 評者: 久行保徳

 「ホトトギス」の巻頭を十九歳の京都帝国大学生の時に占めるという、早熟ぶりを発揮した日野草城の、昭和九年に発表された「ミヤコホテル」の中の一句である。
 結婚披露宴も、最近では式場の専属司会者が宴を進める時代になった。が、まだ昭和の頃の地方では、殆ど同じ職場の同僚や新郎の友人たちが司会を担当していた。
 私も昔は宮尾たか志、玉置宏、芥川隆行らにあこがれて、司会業を目指していたこともあり、友人や知人の披露宴の司会を可なりの数こなしたものである。
 毎回、私の冒頭の第一声は、この草城の一句を詠み上げ、会場の雰囲気を作っていた事が、セピア色になった今も懐かしく思い出される。
 当時何処で如何してこの作品を知ったのかは定かではない。考えるに俳句を始めて間もない頃だと思うが、
  けふよりの妻と泊るや宵の春
  をみなとはかかるものかも春の闇
の、二句とともに記憶に残っていて、二人の門出に相応しいと思って引用していたのである。
 後にこの一連の作品が、賛否両論に渦巻いたことや無季俳句の実践のために「ホトトギス」を除籍になった事実を知るのだが、山口誓子とともに近代俳句の大きな牽引力となった草城の、その才智才覚には敬服のほかない。
  高熱の鶴青空に漂へり
 草城四十八歳の時の作であるが、病の床にある真情が吐露されていて、その幻想が胸を噛む。
  先生はふるさとの山風薫る
 この最晩年の昭和三十年の作も、挨拶でよく引用をさせていただいた。
 草城没後五十六年。「俳句は諸人旦暮の詩である」の箴言は、いまも色褪せることなく輝いている。

出典:『昨日の花』

 評者: 久行保徳
平成24年2月21日