こみあげて母打擲す芒かな 八田木枯 評者: 遠山陽子

 八田木枯氏の句集『於母影帖』には母の句が多い。というより、この句集は意識して母をテーマとする句を中心として編まれたものなのである。ちなみに平成七年の殆ど同時期に木枯氏は『あらくれし日月の鈔』を刊行して、その他の句を収載している。

   两手あげて母と溺るる春の川
   春まだき母乘せし舟突き放つ
   母ほどく春は小笹のゆるる中
   春のくれ家にゐてこそ母ならむ
   蘆の火が母の衾につけ入りぬ
   家ごとに母はひとりや春の水
   母を苛めゐたり暮春の板の間に
   われを産みしばらく母は朝ぐもり

 さすがに、母を詠んだ佳句が目白押しであるが、どれも、言うところの母物俳句ではない。あとがきに「<秋色や母のみならず前を解く 三橋敏雄>の世界は私の裡にも潜むものであるが…」と書いているように、敏雄同様、木枯は母に女性の性を嗅ぎ取っている。しかし敏雄が苦しく母の性を描いたのに比べ、木枯のそれは、むしろ恍惚感を伴うもののようだ。柿本多映が栞に「男性にとって、命の根源である母との出会いは、エロスそのものではなかろうか。(中略)これらの句に漂う近親相姦ともいうべき母への想いは…」と書いているように、「両手あげて」の句などは、まさに歓喜の世界である。だからこそ、その怖れと悔い、懺悔などが混とんとして母を捨てたり、苛めたりする行為の句へと繋がってゆくのである。
 掲出句もそうした句のひとつである。感情の昂りに堪えかねて母を打ってしまう少年の矛盾した心理が、風になびく芒によってなぶられている。母を舟に乗せて突き放してみたり、板の間で苛めたりしても、木枯の句には、どこか甘やかで、密かな歓びのようなものが漂っている。ここは、敏雄の句とは根本的に違うところだ。
 『於母影帖』は、最高の母恋の句集である。

出典:『於母影帖』 1995年 端渓社刊

評者: 遠山陽子
平成24年7月21日