昭和史を生き蓮根の昏い穴 佐伯昭市 評者: 川辺幸一

 作者は昭和2年の生まれである。改元は12月15日であるから昭和をまるまる生きたことになる。その述懐である。蓮根の穴、その昏い穴から昭和史を覗き見るのである。戦争の時代とも言われた昭和は激動の時代でもある。勤労動員を強いられ、仙台から赴いた川崎の工場で空襲を経験したり、防空壕で俳書を読み漁ったりしたという。来し方を思うとよくぞ生きてきたとも思うのである。他に
  昭和史を生き還暦の草いきれ
  昭和終る一日の重き冬の街
  どくだみの花昭和史を負い咲けり
などがあるが、いずれも負のイメージを象徴的に表現している。佐伯の句は二文節の構成をとる。それは「俳句は諷詠するものでなく、つくるもの」という考えがあったからである。二つの部分から作り上げ、その二つの表現を衝撃させ、一句という全体に波紋を引き起こして、表現外の広さを背後に拡散させる手法である。従って有季定型を述べながら、季語を詠んだり、季語から発想したりすることはなかった。以下に作品の一部を挙げてみる。
  乾ききった大学秋蝶は地に下りぬ
  朝寝のあとの疲れ休耕田が靑む
  語尾の甘えは女の美徳吾亦紅
  離婚話がふえなめくじの跡光る
  舌で切る納豆の糸若葉冷え
  偶数はやわらかな数夜の蟬
  絵タイルを滑る秋風痒い耳
  信号を信じて渡る実朝忌
  足の届かぬコーヒースタンド巴里祭
 佐伯昭市(1927~1998)は俳人であって、俳文学者である。東大大学院に在学中の1955年同人誌『炎群』を発刊するも、1970年自説の実践集団として俳句結社「檣頭の会」を創設し、俳誌『檣頭』を創刊する。自説とは「「俳句はつくる意識の基に、言葉による構築物でそれ自身独立した存在」というのである。1951年『暖流』(滝春一主宰)に「造型俳句論序説」を発表、『俳句往来』(古川克己編集)、『東大俳句』などに「造型俳句論」を展開する。この発想の基は芭蕉・蕪村の研究から得たものであろうが、新興俳句や人間探究派の台頭があったものの根強い花鳥諷詠の風潮に一石を投ずるものであった。因みに金子兜太の「「造型俳句六章」が総合誌『俳句』(角川書店)に発表されたのは1961年である。

出典:『佐伯昭市集』(海鳥の会・2008年)
 評者: 川辺幸一
平成24年9月21日