柳髪も世を秋風の手剃りかな 大淀三千風 評者: 瀧 春樹

 井原西鶴の「西鶴大箭数」を意識していたか否かは不明であるが、大淀三千風は第二の故郷とも言うべき仙台に滞在した折に

 空花を射る矢数や一念三千句   三千風

を巻頭とする「仙台大箭数」を著し、大箭数の号を用いてもいた。江戸前期の俳人・大淀三千風、本名・三井友翰である。三千風の号も、この三千句からの悷りではないか、と言われている。
 一六三九(寛永16)年、伊勢の国・射和村に生まれた三千風は十五歳の若さ――といっても当時は一人前の大人――で俳諧の道を志て行脚に思いを馳せるが、父母は句論、親類縁者の猛反対に遭ってしまう。
 しかしその思いを捨てきれずに鬱々とした日を重ねていく。そして三十一歳になった年の秋、ついに意を決し冒頭の句を遺して松島へ旅立ってゆく。一六七〇(寛文10)年のことである。
 奥州は三千風にとって、その自然の素晴しさや人々の暮しぶり、更に厚い人情などに感激して十五年を滞在する。仙台における三千風の評判はすざましいばかりであったらしい。
 京都の伊藤信徳、江戸の松尾桃青(芭蕉)など名のある俳諧師といえども、三千風に比しては小物でしかない、と斬って捨てる者もいたといわれている。贔屓目にみても奥州でひときわ名声の高い俳諧師であったろうことは想像に難くない。
 大淀三千風は奥州の滞在を十五年で終えて「一生の大願望の本意を遂げる」ために、日本全国行脚の旅に出る。
 

評者: 瀧 春樹
平成25年1月11日