いちじゆくやプラットホームも夢の端 金子 晋 評者: 大畑 等
句集『花骨集』より 。
小さな私鉄の小さな駅。プラットホームの端に無花果が生っている。いつもの駅なのであるが、焦点を合わすでもなく景を眺めているうちに、ああこれは夢の端、夢の続きではないかと思った。このようにこの句の読みを書いたのは初めてで、いつもは音楽のようにこの句を思い出している。そして私もこの句の夢に入ってしまっているのだ。
夢は不思議だ。覚めなければ夢ではない。夢と知ることはないからだ。夢か現か・・・・意識して夢の続きを見ようとする。そして上手く続きを見る。なあんだ、けっこう夢を制御することが出来るじゃないか、と思っても、そのことを含めて夢だよ、ともう一人の私が言うと、ああ夢なんだなと思ってしまう。
さてさて通勤の電車を待つ小さな「プラットホーム」も「いちじゆく」も夢でありうる。そう、シェイクスピアの『テンペスト』の台詞、「わたしたちは夢と同じものでできている」を思い出すのである、嗚呼。
評者: 大畑 等
平成25年6月11日
平成25年6月11日