泣きながら青き夕を濯ぎけり 高澤晶子 評者: 松下カロ

 数えきれないほどの女性が、夏の宵、泪を流しながら衣を洗い、濯ぎ、そして干した記憶を持っている。陽がようやく傾く頃、びしゃびしゃと水を撥ね、腕に思い切り力を込めて洗濯物を絞る。白く光る飛沫。洗濯機万能の時代でも、女には、何かしら手洗いしなければならない物がある。仄暗い縁側や台所、風呂場なら、泣き顔を見られる心配もない。盥に身を屈め、母も、妻も、少女も、みな一心に布を濯ぐ。
 どうして泣いたのか、側に誰がいたのか、それとも誰もいなかったのか、人によって違うだろう。しかし、掲句に出会った女性たちは、遠い各々の夕暮をはっきりと思い起こす。それは何故だろうか。多分、ここには、何を、どのように、という固有の背景がすっぽりと抜け落ちているからだ。作者は、「泣く、青、夕、濯ぐ」以外の私的前提を思い切りよく捨てている。個の柱を取り払った後には、広い詞の空き地が残り、その寡黙な空間は、やがて一杯に満たされる。泣きながら濯ぐ沢山の腕で。
 女性たちは青い黄昏をシェアする。媒介となるのは、腕、掌、指先、身体である。あの時の水の優しい感覚。女は手指でも憶え、語ることが出来る。個を放擲し、あけっぱなしの全体となった表意の中へなら、身体で入ってゆける。こうして共有される言葉は瞬く間に普遍化する。
   その人の汗がひくまで待ちにけり  高澤晶子
 十七文字は流れる汗のためだけに使われる。女性はみな、誰かの背中の汗が引いてゆくのを静かに待っていた日を、その匂い、手触りで思い出す。
(イクメン、一人暮らしの増加もあり、夜濯ぎの実感は男性にも広がりつつあります・・・評者)
 
出典:『純愛』 
評者: 松下カロ
平成25年7月11日