ばくだんもはなびもつくるにんげんは 前田霧人 評者: 松下カロ

 2013年4月15日午後。ボストンマラソンの華やかなゴール付近で起きた爆発テロは、三人の命を奪い、二百人近い負傷者を出した。犠牲者はみな若く、うち一人は八才の少年だった。街頭監視カメラの働きで実行犯が特定された。銃撃戦の末、犯人の一人は死に、重傷を負った一人が逮捕された。彼等もまた若かった。
 私達はテロを織り込んで暮らしている。テロの後、現場は聖地のようにカードと花束とキャンドルで埋まり、人々は泪を流して抱き合う。幾日か後、メモリアルは簡素化され、日常が戻ってくる。そして、皆がそれを忘れてしまう。再び思い出すのは、別の街で次のテロが起きた時である。
 時事詠・社会詠の範疇に入るとされる句は、私的独白とは微妙な温度差のある鑑賞フィールドに置かれる。読む側も、相応の距離を取って作品を眺めようとする。しかし、この句はそんな場所には相応しくない。「ばくだんとはなび」。()のままのふたつの言葉は、世界と個を結ぶ薄いバリア上で囁かれる。誰もが内に抱えている憎悪と愛のように、人類が左右の手に持つ破壊と審美。そして「にんげんは・・・」に続く長い休符。
 ばくだんもはなびもつくるにんげんは・・・・・。
 ボストンで亡くなった少年は、自分がどうして死ぬのか知らなかった。「人間って、爆弾も花火もつくるんだね。」と言い残す時間さえなかった。現実が持つ悪意に気付く前に、その時は彼に突然訪れたのだ。
 人間は爆弾も花火も作る。多くの人間はそれを知っている。ただ、私に出来たのは、記憶を手繰り、書架から句集を取り出し、句を探し当て、読むことだけだったのだが・・・。
 
出典:『えれきてる』
評者: 松下カロ
平成25年7月21日