気球とねむらず北ドイツ人フォークト教授 阿部完市 評者: 田中亜美

 深夜、霧がかった雲が、のっそりと動いてゆくような、しずかな憂愁をたたえた情景である。「北ドイツ人フォークト教授」は、実在の人物とも架空の人物ともどちらともとれるだろう。フランスやイタリア、あるいはアルプス山脈を頂く南ドイツといった陽光の溢れるあかるい風土に較べて、「北ドイツ」には陽射しの量も少なく、その土地に住む人物は真面目で寡黙と聞く。「教授」の肩書とも相まって、きちんとした身なりの中にも、憂いを含んだまなざしを隠し切れない、初老の紳士の姿が思い浮かぶ。その人物像は、白髪まじりの金髪、碧眼、一見穏やかそうではあるもののやや狷介、といったところだろうか。
 この句の眼目は、まるで気球が大地を離陸するときのような、ゆったりとした浮遊感が、漂っていることだろう。五七五に特有の歯切れ良さではなく、七音ないし八音のゆるやかな音律が、一句全体を支配している。ゆえに、ここでは、実際にはフォークト教授は、気球の飛翔や眠りのまどろみに、身を委ねているわけではないことが言明されているにもかかわらず、翻って、読み手の私たちには、あたかも、気球とともに、眠り込んでいるかのような、不思議な安らぎが、もたらされるのだ。「ねむらず」という否定の表現の生み出す眠りのレトリックは、もしかしたら、私たちが眠りぎわに時折体験する、まだ起きているという、夢うつつの錯覚にも近いものかもしれない。
 この句の成立は一九九〇年。東西ドイツの統一したこの年、阿部は、二度に渡ってドイツを訪れている。精神科医でもあった阿部はドイツ語に堪能で、フロイトやユングを生んだその文化圏にもつよい関心を持っていた。そうした話を聞く機会に恵まれた筆者としては、「フォークト教授」に、どこか阿部の面影を重ねてしまうのである。
 
出典:『軽のやまめ』 
評者: 田中亜美
平成25年8月1日