ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒 堀 葦男 評者: 柳生正名
数年前にインターネットで検索したところ、「発表時に読んでいると分かる句かも知れないが、現在この句のみを上げられてもよくわからない」という、この句への論評に出会い、少し驚いた。第1句集「火づくり」に収められた葦男の、というより昭和30年代に隆盛を極めた前衛俳句の到達点を示す作である。
驚いたというのは、「わからない」と言われていることについて、何がわからないのか、よくわからなかったからだ。表現されている内容は、ほとんど言い換え不可能なくらい単純で明確である。用語も小学生で分かる平易さ。うじゃうじゃとした黒い何かが狭い場所に殺到し、ぶつかり合い、押しのけあい、それでも、遮二無二進もうとしているのである。
例えば、「黒」を「蟻」と読み替えてみればよい。いっせいに巣穴に入ろうとする様子を人が見ている。ただ、「蟻」でなく「黒」と言うことで、接近し一匹一匹を分かち見る眼差しでなく、神のごとき高みから、無個性なものの集合体として見下す趣がある。ジブリ作品「天空の城ラピュタ」で、悪役のムスカ大佐が地上に落下する敵兵士の群れを「人がゴミのようだ」と嘲るのとどこか近い。
多少難しいのは「あらゆる」。世界中の蟻が集まったわけでは、無論ない。それだけ数多くが「ぎうぎう」になっていることの比喩だ。これによって句の抽象性が高まっている。
葦男自身の言では、夕暮れ時の大阪・御堂筋を猛然と走り来る自動車の群を見て発想を得た(堺谷真人・詩歌梁山泊「戦後俳句を読む」2011年5月6日)という。
この句の「黒」が「蟻」や「車」だったら、「わからない」という発言は出ないはずだ。ならば、句としての良し悪しの評価はともかく、わからないと言う発言はどこから出るのか。最近、安易に「わかる」「わからない」と言うことが、俳句で一番大事な何かを壊してしまうのでは、と思えてならない。
評者: 柳生正名
平成25年9月1日
平成25年9月1日