一生の噓とまことと雪ふる木 寺田京子 評者: 深谷雄大

 寺田京子の俳句について、私は自著『表現と表白』に三十枚ほどの批評を書いている。手がかりとなる資料は多くなかったが、京子が、その素手で摑みとったとも言える俳句から感じたことを書いた。死の六年後で、上掲作は、まだ読んでいなかった。上掲作は、その死の七年後、基金によって刊行された句集『雛の晴』に掲載されている。晩年のこの句について、私は『名句鑑賞辞典』(角川書店)に書いている。改めて書くとしても、同じになると思うので、全文を引く。
 「少女期から肺結核のため闘病生活を続けて来た作者は、結核が完治してからあもその後遺症として肺機能が極端に低下、慢性の心肺不全による日常生活の著しい制限を受けなければならなかった。死を予感し、死と直面して生き続けた五十四年の病境涯は思うだに痛ましいが、同情を拒否し叩きつけて悔いなし、といった潔さを貫き徹した。最晩年の作であるこの句には、その苦難の境涯の総決算の意がこめられているようにも思われる。」
 寺田京子が残した四冊の句集すべてを読んで感じたのは、雪の句の多いことであった。北海道の多雪地帯では、年によって半年も雪との生活が強いられるから、雪の句が多くとも不思議ではないが、京子句集には春夏秋冬の順序立てはないほど、雪の句が入り交じる特異性がある。頭の先から足の先まで雪と向き合う緊張感がそうさせるのか、読み直してみたいと考えてもいる。
 
出典:『雛の晴』
評者: 深谷雄大
平成26年1月1日