広辞苑ひらきて薔薇をみるでもなく 柿本多映 評者: 谷口慎也

 今回私は、柿本多映のひとつの側面を強調するために「滑稽」という言葉を使ってみたい。諧謔では重すぎるし、おどけ・ユーモアでは軽すぎる。だから端的に「滑稽」。
 この句における〈薔薇〉の揺れが面白い。どう揺れるかと言えば、『広辞苑』で〈薔薇〉という文字を探す作者の姿がまず見えてくる。要するに「写生」の手法が一方にある。ところがそれは「みるでもなく」というはぐらかしによって、目は『広辞苑』から離れ、別の〈薔薇〉を見ていることがわかる。でもそれは実物の〈薔薇〉ではない。いわば〈薔薇〉のような〈薔薇〉を見ているのだ、という一種の比喩に転換されている。なんともとぼけたこの表現方法は滑稽。しかも作品には余裕と品格がある。「滑稽」とは、このように詩的喩によって昇華されているものを言う。
 最新句集『仮生』を開いてみると、〈幽霊に胸板がある昼下がり〉〈鏡から尺取虫が出て戻る〉〈鳥は鳥の高さを飛んで流行(はやり)風邪〉〈夢殿へ歩きはじめるかたつむり〉〈忽然とこの世に戻る一夜茸〉などがあり、上に言ったような意味でどれも滑稽。だが実は多映さんは、この句集の編集が軌道に乗ったころ御主人を亡くされている。そして「(この句稿を読み返すと)明らかに夫が書かせたとしか思えない彼の死を予兆するかのような作品に出会い愕然としている」(あとがきにかえて)と言っている。だからこの句集はそういう視点から読むと、滑稽などと言っておれない気にもなるが、やはりこれらの作品は滑稽。抽出句の〈幽霊に胸板がある昼下がり〉などは彼女の言う「彼の死を予兆する」作品かもしれない。でもそういう現実を超えたところで作品が滑稽であるということは、滑稽というものが俳句の本質と深く関わっている証拠ではなかろうか。書くことにおいて、その本質を忘れないのが柿本作品の本質である、ということを言いたかったのである。
 
出典:『仮生』
評者: 谷口慎也
平成26年3月11日