晩年や思うところに猫柳 手代木啞々子 評者: 武田伸一

 掲句の作者、手代木啞々子(てしろぎああし)は1904年北海道有珠郡に生まれ、1982年秋田県仙北郡にて没した。俳句では、1932年「曲水」同人、1940年に抒情俳句を提唱して新興俳句系の「合歓」を創刊するも、戦争の圧迫、印刷事情の悪化により、翌年22号にて廃刊の止むなきに至った。
 実生活では、1947年秋田県仙北郡に移住し、原野の開墾に従事するも生計成り立たず、夫人のかよさんとともに中学分校の教師となった。余談になるが、そのときの生徒に「河」前編集長の佐川広治氏がいた。そうした苦難の中で、1951年には執念をもって「合歓」を復刊する。1956年に初めて乳牛を導入し、以後酪農にて生活は安定に向かった。1973年に居住地の仙北郡協和町の第1回文化功労賞、1980年には秋田県芸術文化賞を授与される一方、平凡社発行の「太陽」にて、「俳人とその職業」で脚光を浴びるなど、秋田県における俳句指導者としての地位も確立されていた。
 ところで、掲句は亡くなる前年、77歳のまさに最晩年の作品である。社会的にも、俳人としても名を成し、ゆったりとした環境下での作品で、単に老いたのではない、生きることの辛酸を嘗め尽くし、やっと到達し得た穏やかな「晩年や」である。そこに籠もる思いの深さは、余人の想像の及ばないところである。困難を極めた開墾時代、伐採のため格闘していた大樹の陰にあって、ひっそりとつややかな芽をつけていた猫柳。くたくたに疲れた心身に、ほのかに明かりを灯してくれた猫柳。目をつむると、開墾時代の苦しさを慰めてくれたあの猫柳が、自分の思うところに立ち現れてくれるのだ。なんという慰撫。思わずも目頭が熱くなるのを禁じ得ない。
 
出典:『手代木啞々子句集』昭和59年12月5日 手代木啞々子句集刊行会発行

評者: 武田伸一
平成26年9月1日