空へゆく階段のなし稲の花 田中裕明 評者: 近藤栄治

 この句の「空」を、死を意識した天上とする読みがある。そうかもしれない。作者の意識は「空」に在って、下界から天上を眺める遺された者の目線、という読みもある。こうした鑑賞は裕明の死の直後に書かれており、免れがたいことだと思う。そうしたことを一端拭きはらって、この句を鑑賞しようとすると、一筋縄では行かないことが分かって来る。
 思い出されるのは、橋閒石の「階段が無くて海鼠の日暮かな」の句。この句を正木ゆう子は、「句そのものの無意味性と脈絡の無さは、読み手を途方に暮れさせ、閒石が薄暗い二階で海鼠をつまみにお酒を飲んでいる気がする」と評した。遊び心を大事にした閒石であれば、この諧謔的な読みは至当かもしれない。海鼠は酒の肴に相応しいから。そうなんだ、閒石の句を思い出したわけは、読み手を「途方に暮れさせ」ることにある。裕明の俳句も、分かりそうで、案外とそうではない。分かったつもりになるのだけれど、いざそれを評せと言われると、はたと困惑することが多い。タネも仕掛けもある手品を見せられて、茫然と立ちすくんでいる、そんな感じだろうか。
 しかし、そうも言ってられないから、この句を何度も読む。やはりこの「空」は、いつか召されるべき天上。空を仰いで、なんだ天上へ行くべき階段なんか見えないじゃないか。生きる意志、生きられる希望が見えた。稲の花は、やがて迎える豊穣の予兆であり、地上の象徴。見えて来るのは、明るい空だ。この時、裕明に寄り添っていたのは、間違いなく、俳句の神様だ。もしかしたら、閒石の遊びごころの句と共に。
 
出典:第五句集『夜の客人』及び『田中裕明全句集』(共に ふらんす堂)
評者: 近藤栄治
平成26年10月21日