不眠症に落葉が魚になっている 西川徹郎 評者: 田中 陽

 作者が高校生時代の、俳壇デビュー作といわれている。処女句集『無灯艦隊』の冒頭の作品である。
 団塊の世代の中でも特に鋭敏な感覚・思想を持した作者の第一作ということで、たくさんの評者(俳人だけではない)がわれもわれもと取り上げた作品である。
  祭あと毛がわあわあと山に  徹郎(第四句集『家族の肖像』)
 僕も「わあわあと」大勢の評者に混って、この西川初心の一句を取り上げたいのである。
 そもそも、青春の懊悩「不眠症」に「落葉が魚にな」るとはどういうことか。べったりと濡れた地面に貼り付いた落葉には、それは無理だ。ここでの「魚」は鰓(えら)が羽根となって大洋の上をとぶ、あの飛魚たちであるにちがいない。
 11月26日付のある新聞のコラムで、たまたま坪内稔典氏が「落葉」の二句
  むさしのの空真青なる落葉かな  水原秋桜子
  爛々と虎の眼に降る落葉     富澤赤黄男
を取り上げている。秋桜子・赤黄男ともに戦前の新興俳句運動の旗手。前句では落葉と青空の取り合わせ、後句も虎の眼と落葉との組み合わせに違いないのだが、やはり赤黄男句は一歩抜き出ている。そして、西川徹郎作になると、落葉と魚との単なる組み合わせでなく、「不眠症」という第三者が彼ら(落葉と魚)を突き動かす主体として実存することとなるのだ。
 第三者「不眠症」とは何物ぞ。この解明にこそ西川俳句を解くカギがあると僕は睨んでいるが、ここから彼の作品は第十四句集『天使の悪夢 九千句』まで累計二万句を超えるという。彼はその厖大なる自らの作品群を、親鸞の思想をバックボーンとして「人間の総体・生の全体性」に挑む“実存俳句”と呼ぶ。細谷源二門であるところもおもしろい。
 
出典:『無灯艦隊』(一九七四年・粒俳句会)
評者: 田中 陽
平成26年12月1日