鶏頭を三尺離れもの思ふ 細見綾子 評者: 中村正幸
「もの思ふ」にはデカルトの「我思う、故に我あり」(コギト・エルゴ・スム)を想起する。哲学的真理を求めて、デカルトは疑わしいものをすべて捨て去っていった。しかし最後にどうしても捨てきれぬもの、それが疑っている自分の存在であった。そしてそこに哲学的真理を見出した。まさに掲句の「もの思ふ」はこの人間としての存在そのものを考えている。人間が人間としての存在価値を感じるのは、この「もの思ふ」行為によってである。考えることをやめ、思考を停止した人間はもはやホモ・サピエンスとは言えない。
近世が理性人に代表されるとすれば、現代は非理性、情緒人の時代である。現代は科学技術の発達、資本の高度集中によって、社会の大規模化、複雑化の様相を呈している。そのような巨大社会を維持運営するには、高度な管理機構が必要となる。このような管理社会では、個人は砂のような存在であり「もの思ふ」自由は与えられていない。
表現の自由、経済活動の自由と言っても、それは権力を持つものの自由であるに過ぎない。内心の自由までも侵されているのが現代社会である。また国から与えられる福祉も、自由のない奴隷の福祉である。
掲句の「もの思ふ」には、この様な世相に自我をもって抗していかなければならないとの強い思いを感じる。「もの思ふ」ことによって、人間の本来の姿をとりもどし、真の人間の自由を獲得しなければならない。
「三尺」の距離も興味深い。人と人、人と物との距離は単なる「隔たり」と考えてはならない。その距離には深い意味がある。人が真に自覚的に「もの思ふ」為の必然的な距離があるのだ。その距離が近過ぎても、離れ過ぎても駄目なのだ。前者では甘えとなり、後者では無関心となる。適度な緊張感ある距離それによって人はその精神を高め自覚的となる。それが「三尺」という距離である。もの思う自由な個人こそ現代大衆社会には必要である。
出典:『冬薔薇』
評者: 中村正幸
平成27年7月11日