切通し抜け紺碧の揚羽となる 橋本輝久 評者: 伊藤政美

 この句は橋本の第三句集『殘心』に収録されている。
 一言で言えば、『殘心』は私には重い句集である。第一、俳句に対する向き合い方が違う。
 橋本は、「あとがき」で「小学校一年のときに生地の広島で原爆に遇った。戦後四十年経ってやっと広島の俳句が作れるようになった」「2001年の同時多発テロのとき、長男がワールドトレードセンターの81階で仕事をしていたが奇跡的に難を逃れた。(7年半経っているが)まだ句は多く生まれない」と言っている。また「今書かねばならぬとの思いが強い。言わねばならぬことは言い、書かねばならぬことは書き留めておこうと思った」とも言う。
 私は、今しか書かない。今見えているもの、今目の前にあるものやことを俳句にする。もちろん、子どもの頃のことや思い出や亡くなった父や母のことも書くが、それも今見えることとして書いている。だから、私には橋本のように「今書かねばならぬ」「書いておかねばならぬ」という切迫感みたいなものは一切ない。過去のことは今の風景光景の中に入り込んでくるだけである。
 例えば、スケールは違うが、同じ昭和20年夏、私は四日市空襲のとき、焼夷弾の雨の中を5キロほど離れた祖父母の生地である今のところまで逃げた。その途中で見た光景はほとんど鮮明に覚えている。また9・11のとき、次男がニューヨークへ研修旅行に行くことになっていて、その先発隊はハワイで足止めを食い次男は出発せずに済んだ。そのどちらも俳句になっていないし、これからも意識して作ることはない。私は、合理的に生きているわけではない。感情的ではあるがこだわらないだけだ。
 多分橋本は、思い続け、問い続け、思索を続け、思想を貫こうとするのだろう。それに比べると私は何とも楽天的である。
 『殘心』については、和田悟朗の14頁にも及ぶ懇切丁寧な跋で言い尽くされていると思う。それ以上は私の及ぶところではない。
 掲出の句は、三章からなる第一章「生地の章」の中の一句。
 重いテーマを忘れてこの句にひかれたのは、生まれ育った故郷を捨てる願望を果たせなかった私の気持を代弁してくれているように思えたからである。長男の私は、田舎で家を継ぐことが当たり前のように育てられ、私自身自然にそうするものと思っていたのだが、大百姓の跡継ぎであった祖父が、青雲の志を抱いて家を捨てた話を聞いてその生き方に憧れた。その祖父も結局は生地である今のところに戻ったのだが、それは半ば志を果たし夢を叶えての帰結であった。今は、残ったことに満足しているが、この揚羽蝶は、ついに切通しを抜けられなかった私の化身、そして願望の叶った夢の光景として私の心の中へ入り込んで来たのである。 (文中敬称略)

出典:句集『殘心』

評者: 伊藤政美
平成27年9月21日