肉体は何の葉ならむ夏終はる 阿部青鞋 評者: 守谷茂泰

 「肉体は何の葉ならむ」という措辞から、人間の体が一枚の葉になって、風にそよいでいるイメージが浮かんだ。葉は夏の終わりの陽光を浴びて緑の色を深め、地面に濃い影を落としている。
 季節の変わり目を強く意識する時期が一年には何回かある。しかしそれが肉体的な実感をもって感じられる時といえば、やはり夏の終わりではないだろうか。焼けつくような陽射し。草いきれ。夕立の音や匂い。熱帯夜の生ぬるい空気。夏は五感を強く刺激する季節だ。毎日暑さにうんざりしていたとしても、いざ夏が終わってみると、なんとなく儚く寂しい気持ちになる。それは夏が誰の心にも肉体にも明確な痕跡を残していくからだろう。
 木の葉にとって晩夏とは、成長が止まって、樹の冬支度のために紅葉し、やがては枝を離れて地面に散ってゆく、終わりの始まりの季節だ。夏の終わりの季節に、肉体は何の葉なのだろうと自分自身に問いかけているこの句には、作者の晩年への意識が色濃く反映されているのだろうと思う。晩年の意識といっても、ただ単に老いへの嘆きだけではない。この句の潔い響きには、長い年月を生きて来た人の深い感慨が含まれている。
 作者の阿部青鞋は、「くさめして我はふたりに分れけり」や「想像がそつくり一つ棄ててある」などのように奇想の俳句を数多く作った反面、掲句をはじめ「冬の日を浴びゐる我を我に帰す」「なつかしくなるまでからだ縮めをり」など人間の生の本質に触れた作品も数多い。クリスチャンだったという青鞋にとって、肉体という葉のそよぐ樹とは、生命の源、あるいは神のイメージを具現化したものかもしれない。 

(句集『ひとるたま』昭和五十八年現代俳句協会刊)

評者: 守谷茂泰
平成28年11月1日