寒卵ジャンバルジャンと泣いてから 栗原かつ代 評者: 松田ひろむ

句意は容易には明らかにならない。「ジャンバルジャン」(ジャン・ヴァルジャン)はいうまでもなく、ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」の主人公の名前。
 ジャン・ヴァルジャンといえば、苦難に耐えて、社会の悪やしがらみと苦闘しながら真実の愛を求める物語といえば、綺麗すぎるだろうか。もっともこれは小学生のときに読んだ講談社の『少年少女世界文学全集』の「ああ無情」のイメージから、それほど出ていない。
 その「ジャンバルジャン」を、驚いたことに作者は擬音化してしまっている。と考えられる。
 泣くのは「おいおい」「さめざめ」「しくしく」「よよ」「わんわん」などいろいろな擬音・擬態語があるが、「ジャンバルジャン」と泣くのはどのような場合だろうかと思う。
 つづいては「寒卵」との関係である。もっとも卑俗な話で喩えていえば、夫婦喧嘩などのうっぷんをぶちまけるように「ジャンバルジャン」(とすれば「ジャンジャンと」が近いだろうか)と泣いて、そして朝の生活に戻ると、そこに寒卵があった。
 ここでの「寒卵」は日常の象徴であろう。不思議なことに卵で季語は、鳥の卵を別にすると寒卵・染卵ぐらいしか思い浮ばない。寒卵は滋養豊富とされて、かつては珍重されたものだった。
 「朝はたれもしづかなこゑに寒卵」野澤節子(『未明音』)の世界である。
 これは助詞「と」の「動作、作用の行われ方」、例えば「ころころと転がる」などという解であった。しかし助詞「と」には、「動作、作用の相手、共同者」という解もある。「ジャンバルジャンと一緒に泣いて」と考えることも出来る。「レ・ミゼラブル」ならばコゼットであろうか。
 作者はただ、「寒卵」と「ジャンバルジャンと」「泣く」の、言葉の響き(語感)の中から、意味を越えた景を求めたとも考えられる。それならばもっと軽い感覚でいいのかもしれない。
 とまれ、この句、一読、あっと立ち止まらせられる。作者の常識を越えた感覚の一句に、しびれるような感動を受ける。

(出典=二〇一三年、東京都区現代俳句協会三十周年記念大会作品)

評者: 松田ひろむ
平成29年1月1日