雪はげし書き遺すこと何ぞ多き 橋本多佳子 評者: 松王かをり
多佳子は、昭和38年2月、大阪の回生病院に入院、開腹手術をしたものの、すでに癌は胆嚢から肝臓まで浸潤しており、同年5月29日死去。享年64歳。掲句は、その入院の折、「雪の日の浴身一指一趾愛し」とともに短冊に書かれたものである。多佳子自身は最後の入院になるとは思っていなかったようであるが、最後の入院になってしまった。前回の「水涕や鼻の先だけ暮れ残る」は、芥川が自句の中から選び出した辞世の句であるが、掲句は、結果的に辞世の句となってしまったのである。
最後の入院だとは思っていなかったとはいうものの、おそらく万が一の覚悟もしていたことだろう。口にはできないその覚悟を、多佳子は句に籠めたのではないだろうか。まだまだ為すべきことがあり、言うべきことがあり、書くべきことがある。その切実な思いが「雪はげし」と響き合っている。あとからあとから無尽蔵に降る雪は、あとからあとから湧いてくる生への切望と重なり合っているのである。
「雪はげし」とくれば、多佳子の有名句、「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」を当然のことながら思い出す。おそらくそのことを作者も意図していたことだろう。和歌の「本歌取り」につながる技法である。背後にこの句を連想させるために、過ぎ去った愛しい日々が透けて見えてくるのである。そのことによって、たった十七音の中に、一人の女性の一生が立ち現れる。
「あなたらの気持ちがこんなにわかるのに言ひ残すことの何ぞ少なき」、これは、平成22年8月12日、奇しくも多佳子と同じ64歳で乳癌のため亡くなった歌人、河野裕子の死の前日の歌である。多佳子の「何ぞ多き」と、裕子の「何ぞ少なき」、正反対のようで実はそうではない。溢れる思いの「多さ」は、伝えきれるものの「少なさ」につながっている。
出典『命終』(昭40、角川書店)
評者: 松王かをり
平成29年11月1日