卵食ふ口のまはりの寒波かな 藤谷和子 評者: 松王かをり

 「卵」とは、何を食べているのだろうか。ゆで卵やだし巻き卵ではないような気がする。それは「口のまはりの寒波」から受ける寒さのせいである。唇についた生卵が、寒さで一気に乾いて白い薄皮状になる様が浮かぶ。しかし、「食ふ」と詠んでいるのであるから、生卵を飲んでいるのではないのだろう。たとえば、卵かけご飯や半熟の目玉焼か。けれど、実際にどのような卵料理を食べていたかは問題ではない。いずれにしろ、読者には生卵の食感と、唇や口のまわりの皮膚のつっぱり感が伝わってくる。
 ところで、卵を食べることには、他の物を食べることとは違う感覚がある。切り身の魚を食べること、ましてや野菜を食べることとは違う感覚である。それは、有精卵にしろ無精卵にしろ、ひとつの命を丸ごといただくという感覚である。それも未生の命を、そっくりそのまま。それが「寒さ」につながっているのではないだろうか。卵を食べているのは屋内であり、食べるという、あたたかさに繋がる行為をしていながら「寒さ」を感じているのである。
 それは、他の命を食ふ「寒さ」であり、生き延びるためには「食ふ」という行為をせずにはいられない「寒さ」である。しかも、「寒波」という極めつけの寒さ、寒さの親玉をもってきているところが、なんとも魅力的である。
 さらに、前回の橋本多佳子の句同様に、この句の向こう側に浮かび上がってくる句がある。西東三鬼の「広島や卵食ふ時口ひらく」である。三鬼の自注には「未だに嗚咽する夜の街。旅人の口は固く結ばれてゐた。うでてつるつるした卵を食ふ時だけ、その大きさだけの口を開けた」とある。
 掲句の作者の藤谷和子は、昭和2年樺太生まれ。18歳の時、ソビエト軍の侵攻、それによる日本軍との戦闘を経験している。作者が、三鬼の句を意識していたかどうかはわからない。けれど、掲句の背後には、たしかに戦争が重低音のように響き、掲句を一層、重層的立体的にしているのである。

出典:『生年月日』(平9、艀俳句会)

評者: 松王かをり
平成29年11月16日