鳴き終えて蟬がきれいになっておる 森下草城子 評者: 伊藤政美
この作品は、毎月行われている「中日総合俳句会」の平成24年8月例会に出されたものである。そのとき、私が推薦5句のうちの1句として選んだこともあって、会報に小評を書くことになった。
以下、そのまま引用する。
俳句はリアリズムでなければならないと考えている。
あくまで、現実に存在しているもの、いま目の前に見えているものやことを書きとめるのが基本である。少なくとも、見たことによって触発されたものを書くことである。見ないもの、見えていないものを書くのは想像でしかない。想像で書いたものは、その人だけの世界であり、独善である。見えてくるものやことを書いて、見えないものや、見えないことが見えてくるところに俳句の醍醐味がある。読み手に想像の機会を与えることによって独善を越えるのである。
さて、掲出の句であるが、誰もが日常的に目にするなんでもない光景である。ところが「きれいになっておる」と言われると、この「きれい」が読む者の神経を刺激するのである。鳴き終えた蟬は、ただ鳴き止んだだけなのか、十分に鳴いた末に死んだ蟬なのか。考えてみると、生きている蟬も落ちている蟬も姿かたちは同じである。一見生と死の区別はつかない。だとすると、蟬は蟬という仮の姿でしかないのではないか。この小さな生き物のこころは、空蟬になったときすでに別のところにあるのだ。そして鳴き終えたとき、たましいは本来あるべき許へ帰って行ったのだ。「きれい」というのは、いまそこに見えている透明な翅や眼を通して感じ取った蟬のたましいでありこころなのである。
ものの本質を掴むのは、見えているものを凝視することによってのみ可能なのである。
森下草城子は、昭和8(1933)年愛知県生まれ。その作句信条として、『平成名句年鑑』(「月刊俳句界」2013年3月号付録)で「生きもの全て、また、無機質のものに対しても、人と同じように対等の立場において、真摯な目を向けたい」と言っている。
また、最近よくこんなことを言う。「歳のせいか、有季定型のよさを思うようになった。そしてやさしい言葉で書きたいと思う」と。
森下の言葉は、うっかりと読み流し、聞き流してしまいそうだが、これは読み手の力量を問われている言葉でもある。
掲出の句を読み返しながら「全てに謙虚でなければ何も見えてこないよ」と改めて言われたような気がした。(文中敬称略)
出典:「中部日本俳句作家会々報」2012年8月号
※6月20日に亡くなられた森下草城子氏を偲び、2015年9月11日現代俳句コラムから再掲載いたしました。
評者: 伊藤政美
平成30年7月9日