よく眠る夢の枯野が青むまで 金子兜太 評者: 恩田侑布子

 初読のとき、兜太の辞世だ、と直感した。現実の死までにはまだ二十年もあったが、兜太の俳諧自由は、八十を前に自分自身に引導を渡していたのである。
 すぐ連想するのは芭蕉の終焉の
   旅に病で夢は枯野をかけ廻る
 であり、最期まで推敲を重ねた
   清滝や波に散込青松葉
 である。前句は藁色と金色のあやなす枯野にうす墨の翳がこもり、後句は散り松葉を吸う清滝川の青水沫が凄愴の気をもたらす。どちらも文学の妄執ここに極まれりといった感覚の冴えがあり、沈痛な声がせまる。
 では、兜太はどうか。くったくもなく眠るのである。寝入り端に出てきた「夢の枯野」さえ忘れ果てて、一っ飛びに千年万年を熟睡する。季節は次々に巡り、春から初夏へ野山は一斉に緑のひかりをほとばしらせよう。
 輪廻転生は古代インド思想が有名だが、古代ギリシャにも古代中国にもあった。万葉集でも大伴旅人は歌う。〈この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我はなりなむ〉現世の快楽主義は転生などものかはだ。
 兜太は、彫心鏤骨の芭蕉からもエピキュリアンの旅人からも遠い。トラック島の筆舌に尽くせぬ戦争体験に二十代で侵襲された男である。終生〈青春の十五年戦争の狐火〉につき纏われた永遠の「少年」が、狐火ならぬ、無傷の青草と無心な青野の生を願い続けたとしても、そこになんの不思議があろうか。

※『現代俳句』2018年7月号金子兜太追悼特集「忘れ得ぬ一句鑑賞」より

評者: 恩田侑布子
平成30年10月1日