沖に/父あり/日に一度/沖に日は落ち 高柳重信 評者: 木村聰雄

「遠耳父母」(『高柳重信全句集』〔昭和47年〕に収録)からの無季の句。海のかなたを眺めていると、遠くから声なき声に呼ばれている感覚に捉われることがある。いざなうようなその声を、父と認識したところにこの句は立つ。「沖に/父あり」と詠まれる父とはいかなる存在か。有史以前のはるか昔にこの日本列島にたどり着いた、われらの先祖たちの父。そしてすでに過去帳に載ったわれわれ一人ひとりの父――その魂も沖へと飛び立って同化しているだろうか。失われた父という存在へのわれわれの憧れと怖れは、目の前の海の雄大さと深さに共振する。水平線の彼方は絶対的な存在が住むべき場所であろう。「日に一度/沖に日は落ち」――太陽さえも、日々、父のもとへ帰ってゆく。父性とは、ただ、そこ〈沖/彼方〉にあると感じられるだけで、大いなる存在であり続けるのだろう。
 
評者: 木村聰雄
平成20年6月24日