日記買う余命限りの無きごとし 守田椰子夫 評者: 阿部完市

 昨年の十二月半ば、十五日の夜半。呼吸困難、胸内苦悶などと、教科書にあるとおりの自覚症状。救急車がよばれて、三十分ほどのS病院に入院した。担架にのせられて、運ばれた。ふと見上げた夜空。星がきらきら。「あれ、きれいですな」等と思った。しかし、そんな時、ふと一句出来かける。こんな時に、俳句作ろうとする自分――とても滑稽。悲鳴を上げている、そんな自分を、もうひとりの自分が眺めていた。われながら、その俳句馬鹿ぶりに呆れたり、「この阿呆」などと自分に言ったりした。<鬼が絵を描く>という《ことば》のかけらが、ふっとあらわれた。さて、これがどんな一句になるのかな――あれこれ考えた。しかし、心忙しいし、ひょっとすると、これでおしまいかな等とも思った――私という人間。母が、心筋梗塞でやられているので、八十才直前の私も、そろそろ……と予定していた。それがやって来たのだった。そして、<鬼が絵を描く>というフレーズが出て来た。われながら病膏肓に入るとはこのことだわい、と思った。病室に運ばれて、それ心電図だ、それ胸部撮影だ、それ点滴……と大さわぎ。トイレにも行ってはならぬと主治医に厳命されて、こりゃあかん、と思った。入院二週間、八十才になるその正月半ばに退院。それから、ボケ予防を兼ねて、毎日がんばって、仕事はつづけている。そして、のほほんと、「余命限りの無きごとし」と思ったりした。「……もうそろそろいいんじゃないかい」と自分に自分で言いきかせながら、一日一日を過して、現在――昨日、今日、明日。今日という一日、一日――とても心軽々とくり返しています。<死>ということへ、日記。きびしい一句である。
 
評者: 阿部完市
平成20年12月21日