ヒロシマの氏神は何をしていたのか 川名つぎお 評者: 田付賢一

 川名つぎお氏の句集『尋』で、氏の戦争をモチーフとした作品に多く出会った。その中でもこの句の印象は鮮明だ。氏の裡にある怒りのようなもの、悲しみのようなものが鋭く伝わってくる。
 川名氏は昭和十年、私は昭和十六年生まれである。この六年の差は戦争に対する体験の絶対的な差でもある。神国日本として戦った日々と、そのすべてが瓦礫となって否定される八月十五日以降の日々その両方の体験を共有しながら、俳句の中に表出していく氏の胸奥へ深く共感する。
 戦後すぐの<まっさらな>民主教育を受け、大学時代にあの六十年安保闘争の渦の中にいた世代の私の中に今も「ヒロシマの氏神は何をしていたのか」にある叫びは鮮明に存在する。
 ある時、あの安保闘争の渦の中に川名氏もおられたことを知り、あの頃の「反戦」の思いを語らせてもらったことがある。あの頃、私は短歌の世界にいた。闘争から五十年後、私はこんな歌を残している。
  三十九年経て立つ南門かの夜を樺美智子は足もとで死す
 そんな歌を残してからもう十年以上の年月が流れている。私たちの世代にとって六月十五日はもうひとつの敗戦の日々だ。樺美智子を救えぬまま敗れた安保闘争だった。
  靴音が昭和瓦礫を出ていない
  置き去りしもの戦争か昼の月
  停車することなし昭和の尾灯
 昭和が置き去りしものへの残像に対する「危機」を静かに、そして深く語ろうとする氏への共感を私は胸に焼きつけている。

出典:『尋』

評者: 田付賢一
平成22年4月1日