蝶々をてふてふと書き昭和遠し 星野昌彦 評者: 前川弘明

 「てふてふ」という発語は、いかにも蝶々の姿態を想わせる言葉であったが、今はもう一部のマニアに残っているだけで普通は使わない。一般に使っていたのは昭和の初め頃までだろう。まさに「昭和遠し」である。
 そういえば、文語表記が当たり前であった短詩型に、口語表記がずいぶん多くなってきた。同じ短詩型でも、短歌界に口語歌がよりみられるようだが、俳句界にも文語俳句と口語俳句がみられる状況になりつつある。文語俳句であろうと口語俳句であろうと、言語と表記の整合性に留意しておくことが肝要になる。
 たとえば、一句の中での言語と表記の関係には、次の組み合わせが考えられる。すなわち、(1)文語+歴史仮名遣い(2)口語+現代仮名遣い(3)文語+現代仮名遣い(4)口語+歴史仮名遣い(5)口語+文語の5つのパターンである。正当な遣い方は(1)または(2)であって、(3)と(4)と(5)は正当な遣い方とは言えないが、(3)(4)(5)のパターンを見かけることがよくある。殊に(5)のパターンについていえば、口語(いわゆる現代の話し言葉)で記述する方法を採用しようとしているのに、一句の中に文語(いわゆる旧代の文章語)が(或いは逆に文語句に口語が)混交するのは、正当性を放棄した奇妙文体と言わざるをえないだろう。たとえば、口語文体句に文語の切れ字「や」「かな」「けり」等を使用する類がよくある。おそらく作者は混交を承知の上で使用しているのだろう。何故か。大きく分けて三点あると思う。一つは、日本人が長年愛しつづけてきた文語の遺伝子が無意識に作者に生きているから。二つには、句に必要な切れを文語のもつ強さに頼ろうとするから。三つには、長い時間を経て文語に醸成されてきた時空感が魅力だから、なのであろう。
 さて、各俳句人の創作魂はいろいろだろうが、ぼくにも「蝶々をてふてふと書き昭和遠し」との感慨がある。

出典:第12句集『三ノ輪町界隈』
評者: 前川弘明
平成23年4月1日