長寿の母うんこのようにわれを産みぬ 金子兜太  評者: 河野輝暉

 漱石の俳句に確か、海鼠のように産まれる、というのがあり、その時も驚いたが、掲句には唖然として、無季に気付いたのは暫くしてからだった。「トイレの神様」というこれまた珍奇な歌が若者に受け、昨年のNHK「紅白歌合戦」に初登場した。両者の共通点は、神と出産という聖なるものと「ご不浄」に表わされる屎尿という穢れとの一体視であろう。万象に八百萬(ヤオヨロズ)の神性を認知する神道。この聖典とされる「古事記」はまたスカトロジィの書として連想される。伊邪那美命(イザナミノミコト)が次々に神を産む。「屎(クソ)に成りませる神の名は波邇夜須毘古(ハニヤスヒコ)の神。次に波邇夜須毘売(ハニヤスヒメ)の神。次に、尿(ユマリ)に成りませる神の名は弥都波能売(ミツハノメ)の神。」と記されている。世界広しといえど、事もあろうに糞尿に神の名前のある宗教を他に知らない。天照大神らが高天原を、籾種をこの中津国にもたらした太古から、この終戦後の二十年近くに至る迄、農耕生産の肥料は何に依存してきたかを考えるといい。人糞尿が主力だった。古代は農生産も生殖も等価視され、分離していなかった。兜太の主張する「産土」は、「(苔の)産(ウム)す」と太陽の「日」の合成語でムスビの思想であり、これの生成化育する土地、という意。結果的にはアニミズムの信仰である神道の基本理念と同じ事であろう。
 敗戦時にマッカーサーによる日本弱体化という占領政策が施行された。国家神道は戦争協力宗教として法的にも受難を経過している。その原初的感覚に目を向けたい。
 黄金なす瑞穂の美しさは、生産力を持つ母性の美しさである。そこには賢しらぶった、美醜、浄穢の分別は雲散霧消して互が融合する。兜太俳句は、過剰に陳腐で優美な花鳥諷詠から、生きもの感覚を主唱している。俳壇を真の「俳」に踏みとどまらせて、人間解放を続行している。「長寿の母を波邇夜須毘古とし産まれけり」のパロディを謹呈申します。

出典:『日常』
 評者: 河野輝暉
平成23年7月21日