音楽を降らしめよ夥しき蝶に 藤田湘子 評者: 亀田蒼石

 湘子の処女句集『途上』にこの句がある。前書きには「わが祷り」とある。広島に入って原爆慰霊碑に佇み「春疾風供華みつつ頭は垂れざりしか」を詠み十数句の最後に前掲の「音楽を降らしめよ夥しき蝶に」を読んで広島を去っている。
 初めてこの句にであったとき、この句の破調の魅力と句のみずみずしさに胸が高鳴りした。恥ずかしい話だが最初は「わが祷り」の前書きも、まして広島での作とも知らなかったのである。
 以前、或る神社の雨上がりの鬱蒼とした樹の上を、それこそ無数の白い蝶が湧くように舞うのを見たことがある。それは不思議と言おうか異様と言おうか異界に迷い込んだような不思議な感覚を体験したことを思い出したのである。湘子もひょっとしてこんな体験をしているのかもしれない。私はふっとそう思った。湘子は原爆慰霊碑に佇み多くの霊と心を通わせているうちに、過去に体験した夥しい蝶の群れをそこにみたのだ。「音楽を降らしめよ」という呼びかけがなんと力強くそして哀しく響いてくるではないか。
  月下の猫ひらりと明日は寒からむ  第二句集『雲の流域』
  口笛ひゅうとゴッホ死にたるは夏か  第三句集『白面』
  筍や雨粒ひとつふたつ百      第四句集『狩人』
  あめんぼと雨とあめんぼと雨と    第十句集『神楽』
 湘子には破調の句は少ないのだが抽出したものは破調句が多くなった。湘子は有季、定型、特に韻文精神を強調した人だが破調や無季を否定しなかったし破調の強さを熟知していた人であった。

出典:『途上』
評者: 亀田蒼石
平成23年9月21日