黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ 中村苑子 評者: 木村聡雄
昭和50年の処女句集『水妖詞館』からの一句。同句集には「しばらくは黄泉の伴(とも)する影法師」も見える。これらの作品で心は自在にこの世とあの世とを行き来し、季節さえない黄泉への共感を映す。かつて中村苑子さんからは、「木村くん、私の俳句の先生は『春燈』の久保田万太郎だったのよ」と伺ったことがある。それは最初から俳句の伝統世界のみに留まらないという志向の表明でもあっただろう。「俳句評論」創刊から発行人を務め、昭和30年代のいわゆる前衛俳句革新運動の傍らに身を置いて、その俳句はさらに独自の羽ばたきを見せた。のちには第二十二回現代俳句協会賞も受賞している。女性を象徴する髪を梳くという行為、それはこの世に置いてきた誰かを心に思い浮かべてのことか、または死してなお消え去ることのない自己愛のためか、あるいはもはや無意識的行為でありさえする生前からの習慣なのだろうか。すでに黄泉の人となってその境遇に身を任せる存在が書かれている。拒絶もなく迎合でもなく置かれた状況にただあるがままに向かう姿。それはひとりの人間の弱さでもあり、同時に強さでもあるだろう。するとこの句は、女性を詠みながらも人間精神のありようについての考察であるようにも感じられる。
出典:『水妖詞館』
評者: 木村聡雄
平成24年3月11日