縊死にせよ絞殺にせよ水温む 石原吉郎 評者: 高岡 修

 この作品に触れると同時に想起する文章がある。石原吉郎と同じくシベリアに抑留された画家・香月泰男が「埋葬」と題した絵に付した次の文章である。

 死者は山の斜面に埋葬した。柩がわりの毛布は、墓に入れる時に取去られ、顔の上にわずかばかりの白布をのせてやるのが、かえって痛ましく、正視出来なかった。凍った土は固くて掘りにくく、穴の浅いところは、地表からわずかに掘り下げた程度だった。雪解けには、その何体かが露出した。

 石原作品の「水温む」という一語に触れるたびに、私は香月の文章の「雪解け」の様を想いえがいてしまうのだ。そうして私は「水温む」という季語を、これほど見事な詩語として昇華させた俳句を他に知らない。
 ところで、傑出した詩人であった石原は秀れた俳句論者でもあった。<僕らは定型に対して、常に不安でいなければならない。それは、定型に不安を抱いている者こそ、定型に対して生き生きとめざめているものだからである>とする石原は<定型は「不断に」これを脱出するためにある。定型の枠が存在することによって、はじめてこれに対する抵抗がうまれ、脱出するための情熱と、圧縮されたエネルギーがうまれる。いわゆる自由な詩形が「自由でしかありえない」ゆえんは、それが脱出すべきいかなる枠をももたない点にある>とまで言いきる。それはまたシベリア抑留の苛酷な体験から導かれた論理でもあるのだが、
  ジャムのごと背に夕焼けをなすらるる
  柿の木の下へ正午を射ちおとす
  烏瓜熟るるは殺意よりおそし
などの俳句作品を書いた石原は、詩と俳句を同じ思想のレベルで書きえた数少ない詩人のひとりでもあった。

出典:『石原吉郎句集』

 評者: 高岡 修
平成24年5月1日