便所より青空見えて啄木忌 寺山修司 評者: 松岡耕作
昭和二十八年、受験誌「蛍雪時代」の文芸欄中村草田男選二席の作品、寺山の初期の代表作の一つ。簡明ながらも便所と青空の見事な設定、フレッシュな感覚で、啄木への思いが込められた。次も同時期の作品。
花売車どこへ押せども母貧し
目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹
林檎の木ゆさぶりやまず逢いたきとき
わが夏帽どこまで転べども故郷
寺山は、多彩な経歴の持ち主で、四十七歳で早世したが、彼の原点は俳句である。平成十五年、世田谷文学館で開催された「没後二十年寺山修司の青春時代展」で、彼の初心時代が浮き彫りにされ、改めて脚光を浴びるようになった。私も次の一通の手紙を出品した。
「前略 受験と文学お忙しいことでございましょう。北国のクリスマス、青森はすっかり雪景色。さて俳句が青春の文学としてすでに革命の時期であることは波郷先生も云っておられる通り。僕たちは次のようなグループを持っています。同人は京武久美、松井寿男、近藤昭一など約二十名。いまのところはガリ刷り雑誌程度ですが、来春五月からは大きな運動(例えば歴史にのこるような)を企画しています。そこで十代の優秀な作家を集めるために、同人のひとりとして君を推薦することに致しました。賛意でしたら作品十句とお手紙下さい。寺山修司 」
私も早速創刊号の「牧羊神」に参加した。週刊誌「サンデー毎日」が、「この年少作家たち」として特集するなど、反響はあったものの、わずか十二号で終刊した。しかし当時「俳句に革新を」の意気込みの一石は投じたものと思う。
平成十八年「俳壇」五月号、聞き書き「詩歌の潮流」で寺山の元妻で離婚後も劇団「天井桟敷」を支えた九條映子は、寺山の最期に、「『死ぬのはいつも他人ばかり』というマルセル・ジュシャンの言葉を引用して言っていたから、今度も死にはしないやと思っていたふしがあった。でも、そのころ体の中は火事よ。六十歳まで生きたいと言っていたのね。人間の寿命はだれもわからないけれど、四十七歳という寿命があったんでしょうね。その間フル回転した。」と述懐している。晩年、原点の俳句に戻りたいと言っていたそうであるが、果たせなかったのが残念である。
出典:『寺山修司の「牧羊神」時代』
評者: 松岡耕作
平成25年1月1日