百年は死者にみじかし柿の花 藺草慶子 評者: 恩田侑布子

 てらてらと光が庭先にこぼれる。田舎にはあちこちに柿の木がある。あらゆる新緑の中で、もっとも記憶に深く身近な木。葉をさっと天ぷらにすると、ぱりっとした歯ざわりに、ほわっとした甘さがにじむ。花は秋には実になる。柿をもいでしまうと、紅葉が深まる。舌状の光沢ある朱色に、緑のまだらが残って、虫食いの黒孔がべったりと雨にぬれているさまは、どこか人間くさい。
 されど初夏、山河が一斉にさみどりに染まるなか、柿の花を愛でるひとがいるだろうか。葉陰にひっそりと目立たぬ萌黄の花は、木の下に寄ってつぶさに見上げなければけっして目に入らない。作者にも思いがけなかったのだ。いつの間にこんなに茂ってと、柿の枝にふと寄って、若葉の重なりのなかに、花ともいえぬ花をみつけた。若菜色の光に包まれる。ああ、こうして時は過ぎてゆく。刹那、愛するひとを思った。そのひとがすでに死者である事実を。ともに笑った日が胸を叩く。死者に時は進まぬ。どれだけ自分が生きても、死んだ人は変わらない。この世の長い百年は、死者には玲瓏(もゆら)、たまゆらにすぎない。生者と死者。その時間の無惨な対置に、新緑の悲しみが奔出する。それは声なき嗚咽だろうか。まぶたの仄紅らみは、若葉に噎せただけだろうか。
 「遠い、遠いって、なんで遠い近いをお計りになりますの?」
川端康成の短編「離合」では、別れた夫婦が十年ぶりにことばをかわす。
「私にはみんな近いようですわ。私のいる国はそんなに遠くありませんわ」
ふいにやって来た元妻は、人と人との距離、それもかつて愛したかけがえのない人との距離を問いかける。その妻は、白昼夢に顕われた死者であった。
 死者は十万億土の果てにいるのだろうか。いいえ、身ほとりに。そうでなければ柿の花が、こんなに蒼く透明なはずがないではないか。散り敷く花のように、作者のたましいは静まる。
 
出典:『遠き木』
評者: 恩田侑布子
平成25年10月1日