いつもかすかな鳥のかたちをして氷る 対馬康子 評者: 恩田侑布子

 富士の裾野にはあまたの溶岩洞窟がある。そのうちの、ひとけのない一つに入る。天井からしたたる雫が、岩棚の上に一滴ずつ結氷し、洞穴に吹き込む風の向きによって、ふしぎな形をなしている。昼なお暗い洞窟を照らすヘッドランプに、かがやくものが浮かび上がった。翼をたたんで仰向く一羽の鳥である。貞観の大噴火から千百年余、富士山の地底では、臓物のない冷たい鳥が、いまも数知れず生まれ続けている。
 冬の朝、子どもはバケツの上に初氷をみつけてよろこぶ。毛糸の手袋の指につまんで空にかかげるとがった氷片は、くちばしと翼をもつ透きとおる青い鳥なのだ。
 春先の氷は、富山の銘菓「薄氷(うすごおり)」が舌にほどけるように、冷たさのなかにもほのかなまろみをもつ。それに比して掲句の氷は、真冬のもの。鈍角のぬくもりを恋う流線型の鳥の幻影である。
 ひらがなに鳥と氷だけの漢字表記は、視覚的にもオブジェのようにうつくしい。美術館の一室に、生きた鳥と氷を保存することは出来ないが、俳句という小さな詩のなかでは、いつでもそれが可能なのだ。
 富沢赤黄男の〈蝶墜ちて大音響の結氷期〉は、シュールな美が、大東亜戦争に突き進む時代の無惨をいっそう際立たせる。同じ結氷でも、掲句はひそやかな内面の象徴である。氷る冬の朝に見出された鳥は、祈りの姿でなくてなんであろうか。ひとは、叶わぬ恋の逢瀬を、不治の病を告げられた大切なひとの恢復を、哀しみの中で祈るしかないのだ。
 阿弥陀信仰の盛んな鎌倉時代の優品に、知恩院の早来迎図がある。その濃紺の闇をここで思い浮かべるのは、お門違いだろうか。画面は花の夜というのに冷たい渓声にひたされ、深い闇は凝って玉のようだ。鳥はあの世とこの世をつなぐ使者でもある。雲に乗ってやってくる仏菩薩は鳥だったのではないか。片隅の庵で合掌する修行者のように、人はだれもむこうの闇に飛び立っていく。絶望と紙ひとえに氷る胸の底に、かすかに結晶する鳥のかたち。ことばなき愛の祈り。
 
出典:『純情』1993年
評者: 恩田侑布子
平成25年10月11日