夢の世に葱を作りて寂しさよ 永田耕衣 評者: 近藤栄治

 この句は、「夢の世に葱を作りて/寂しさよ」と読むのだろう。/のところにちょっとした間合いがある。普通の文章の形なら、「夢の世に葱を作ること寂し」となる。この場合接尾語の「さ」は、「・・・ことの寂しいことよ」と感動の意を表す。「夢の世」は歌道では、夢のように儚い世で、そんな儚い世において葱を作っている、という否定的なニュアンスになる。山本健吉は名著『現代俳句』で、儚い世で腹の足しにならない「はかない」葱を作っていることに、「人生の寂寥」を読みとっている。敗戦後のまだ混沌とした状況が念頭にあっての、読みと思える。しかし、この句を何度も読み返していると、それとは違う感慨も湧いてくる。
 ここは思いきって即物的に読んでみても面白い。作者は実際に夢の中でせっせと葱を作っていたのであり、夢の中でも葱を作るかという思いに、たまらない寂しさを感じた、と。夢に見たことが、心の中に錘を下ろし、しばらく心を領すという経験は誰にもあるだろう。しかし、この句が成った瞬間、具体的なものとしての寂しさは自分の手から離れ、まったく異質なものに膨らんで行った。この句の「夢の世」は、現実の延長やそれを反映した世界というよりも、彼の世というものと同じく、現実とはまったく違った世界のように思えて来る。「夢の世に葱を作」っていることを、肯っている。そして「寂しさ」は、現実に根差した具体的なことではなく、何かもっと大きなもの、此の世も彼の世も包摂した人間の営みの、根源的な「寂しさ」といったこころもちが感じられる。「寂しさ」をも肯っているのだ。それは、人間の免れがたい営みの象徴のようにも思えてくる。「寂しさよ」は、「寂しいけれど、これが人間なんだよ、君」という呼びかけの形になっている。
 因みに耕衣の戒名は、生前に自ら付けた「田荷軒耕衣夢葱(でんかけんこういむそう)居士」である。
 
出典:第三句集『驢鳴集』(『現代俳句の世界13』朝日文庫所収)
評者: 近藤栄治
平成26年10月1日