砂熱し沈黙世界影あるき 加藤楸邨 評者: 中村正幸
奥の細道を旅した芭蕉が旅の人であることは言うまでもないが、楸邨もまた旅に固執した。芭蕉研究に生涯を捧げた楸邨である故当然と言えば当然のことである。芭蕉の奥の細道に相当するのが楸邨のシルクロードである。
現代とは異なり、芭蕉の時代の旅は常に死と直結するものであった。旅は家族、友人との永遠の別れを覚悟してなされるものであった。水盃は当然の儀式であった。これに対して、現代人の旅は楽しみ、心の安らぎの為に行われる。死を意識することはほとんどないと言ってよい。その旅の重さにおいて、両者の違いは歴然としている。
楸邨が日本国内でなく、海外特にシルクロードにその旅を求めたのは、芭蕉が感じた命への切迫した思いを体験したいと思ったからではないであろうか。肉体を傷めることによって、深くその精神に近づくことが出来ると考えた。芭蕉俳句の精神性をそれによって体得したいと考えた。芭蕉俳句の一句一句の重さを真に理解したかったと言える。芭蕉の時代の旅は人生における一大行事であり、現代の旅は人生の一休止符である。
それでは芭蕉、楸邨が求めた旅の本質は一体何であったか。芭蕉の旅の性格は自分のひとりごころから出た已むに已まれぬものと言う。楸邨の旅はこの芭蕉のひとりごころに呼応しようとする旅であった。
楸邨がシルクロードの砂漠の中で見たものは、どこまでも続く熱砂であった。そこは果てしない沈黙世界であり死の世界であった。歴史を遡れば、幾多の民族の興亡があり、様々な民族の血が流された土地である。今も戦いはあるが、砂漠は深く沈黙している。楸邨一行の影はその砂漠に黒々とある。その影はまるで死の象徴のようである。死の影を引きずりながらひたすら歩く。日本では実感できない死を実感した貴重な時間と空間の中にある。「夏草や兵どもが夢の跡」を楸邨は思い出している。
出典:『死の塔』
評者: 中村正幸
平成27年7月1日