凌霄花(のうぜん)のほたほたほたりほたえ死 文挾夫佐恵 評者: 佐怒賀正美
これまで何気なく愛誦していた句が突然深々と見えてくるときがある。読者の成熟を待っていてくれる句なのだろう。この句もその一つ。ちなみに作者は九九歳のとき句集『白駒』で蛇笏賞を受賞し、翌年百歳で他界した。
「ほたえる」とは「ふざける、たわむれる、じゃれる」などの意。一句の前半は、花びらの落ち方の形容かと思うが、下五に至ると人間の死にざまに思いが至る。この流れが心遊ばせるように、なんともゆったりとしている。情熱的に天辺まで咲き昇った凌霄の花は、やがて笑うように戯れるように落ちながらこの世の生を終わる。凌霄の落花の光景が、いつの間にか作者の心象風景に重なっているのだ。
実は、この句は、句集の中では次のようなドラマチックな連作仕立てで三句の真ん中に置かれている。
魔のなかの睡魔はやさし青葉木菟
凌霄花のほたほたほたりほたえ死
のうぜんの曼陀羅覆へわが柩
句集の流れで読んでしまうと、前後の句の通俗性に引っ張られて、確かに一句の主張は浅く感じられてしまう。作者自身「この句は考えようによっては、ふざけたような句なのだが」(『わたしの昭和俳句』富士見書房)と謙遜気味に自重している気持ちも分かる。
だが、一句独立で読むと、この句は俄に生気かがやく。韻律的な趣向を尽くしながら、全体としては恰幅ある詩品となる。一風戯れたように見えながらも、実は深く内心を見つめた句なのである。「心くばりがありすぎて詩品の本筋が少々弱くなっているのが俳諧という野性的な詩情と違和を生じていて、それがこの作者にとっては惜しまれる」(石原八束)との批評も一理あるが、この句に「野性的な詩情」を求めるのも少々無理筋ではないかと思う。
この句には、晩節への意識が籠っていよう。情熱的な生き方に続くように、最後には戯れるように笑いながら「ほたえ死」へ向かいたいとの願望を、心開いて表白した句と受け止めたい。豊かな心情と自在な言葉が呼応しながら、しなやかに流れる文体の強さもこの句にはある。
(昭和五七年作・句集『井筒』東京四季出版)
評者: 佐怒賀正美
平成28年9月1日